高知県高知市長浜の若宮八幡宮(高知県高知市長浜6600)にある長宗我部元親初陣の像です。

長宗我部元親像

長宗我部元親初陣の像です。左は全体像、右はアップ画像です。台座には長宗我部元親公初陣之像とあります。

長宗我部元親公初陣之像元親像アップ長宗我部元親は1560年長浜の戦いにて初陣を飾りました。当時22歳という遅い初陣ながらも、自ら槍を持って突撃するという勇猛さを見せたといわれています。

この像はその雄姿をあらわしたものです。槍を持ったこの姿はなかなかかっこいいものです。

この像は台座を含めて、約7メートルの高さがあります。槍は5メートルを超えます。

2009年は銅像建立十周年になります。また、5月24日に行われた初陣祭には県外からのファンの参列も多かったようです。


長宗我部元親公銅像長宗我部元親公銅像

この銅像は元親公没後四百年に当たる平成十一年(一九九九)五月に、地元有志の発案により建立されました。
元親公は永禄三年(一五六〇)五月、二十二歳の折り、本拠地の岡豊城を進発し、宿敵、本山氏の守る長浜城を陥落させ、初陣を飾りました。その際、若宮八幡宮の社頭に陣を張り、戦勝を祈願したことから、この地に初陣の雄姿を再現したものです。その後、約二十五年をかけて四国全土を掌握しましたが、豊臣秀吉の軍門に降り、慶長四年(一五九九)に六十一歳で京伏見の館に没しました。
銅像の高さは台座も含め約七メートル、槍の高さは五・七メートルあります。

初陣像由来記

初陣由来記

頃は永禄三年(一五六〇)五月末、
二十二歳で初陣を迎えた若武者元親は
父国親と共に宿敵本山勢の立てこもる
長浜城攻めに取りかかる。
決戦前夜、若宮八幡宮社頭の
この地に陣をはり、必勝を祈願し、
見事これを打ち破る。
初陣以来二十五年、
ついに四国全土を掌握す。
元親公没後四百年に当たり、
文武両道にわたる公の郷土への
偉大なる業績を顕彰し、
歴史に名を残しながら
悲運のうちに倒れた長宗我部一族や、
あまたの武将達の御霊を鎮めると共に
末永く郷土の誇りとして
語り伝えん為、この像を建つ。

平成十一年五月二十三日
長宗我部元親公初陣銅像建立期成会

戦国時代・安土桃山時代の戦国大名 長宗我部元親について

天文8年(1539年) - 慶長4年5月19日(1599年7月11日)
土佐(現在の高知県)の長宗我部氏21代当主。長宗我部国親の嫡男、母は美濃の斎藤氏の娘で、自らの正室も斎藤氏から迎える。幼名は弥三郎、法名雪蹊恕三、官位は宮内少輔、土佐守。姓名での名乗りは秦 元親(はたの もとちか)。

兄弟は吉良親貞、香宗我部親泰、島弥九郎親益。子に信親、親和(香川五郎次郎)、親忠(津野孫次郎)、盛親、右近大夫、康豊(吉田氏)がいる。

幼少の頃は色白でおとなしく、軟弱な性格から「姫若子」と皮肉られていたと伝えられています。後に土佐一国を統一する大名に成長し、鬼和子や土佐の出来人と呼ばれましたが、信長からは鳥なき島の蝙蝠と揶揄されました。

長宗我部元親は1560年の長浜の戦いにて初陣を飾り、同年父の急死により家督を相続し第21代目の当主となります。その後、いくつもの戦を経て、土佐統一、そして四国統一を為すこととなります。

1585年四国を統一しますが、同年に豊臣秀吉四国征伐が行われ、元親は秀吉の軍門に降ることとなり、土佐一国となってしまいます。翌1586年には秀吉の九州征伐に嫡男・信親と共に従軍。しかし12月豊後戸次川の戦いで信親が討ち死にしてしまいます。その死が元親に与えた影響は大きく、人が変わってしまったかのような行動をするようになり、これが長宗我部家滅亡の遠因となった。

1599年、病のために伏見屋敷にて死去、享年61。


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シアターキューブリック『誰ガタメノ剣』スペシャルサイト〜信長・秀吉・家康に正面から戦いを挑んだ男、長宗我部元親〜