高知県観光情報サイト「こじゃんとネット」では、高知の観光情報やイベント情報などの情報発信をはじめ、飲食店や暮らしなど様々なショップ・企業の紹介をしています。

HOME > 観光情報 > 梼原(ゆすはら)ゆかりの志士たち

梼原(ゆすはら)ゆかりの志士たち

維新の門

平成7年11月11日建立。幕末維新に活躍した梼原ゆかりの志士たち8人の像です。
左から前田繁馬、那須信吾、吉村虎太郎、中平龍之介、掛橋和泉、澤村惣之丞、坂本龍馬、那須俊平。
掛橋和泉は次々と同志が脱藩していく中、資金援助を行った。
維新の門は、梼原町役場から徒歩約5分の位置にあります。

維新の門
六志士の墓

六志士の墓昭和10年(1935年)梼原村建立。
梼原町指定文化財ともなっています。
明治維新の先駆けとなり、その命を賭して国事に殉じた6人の志士の分霊が祀られています。
右より、吉村虎太郎、那須俊平、那須信吾、前田繁馬、中平龍之助、掛橋和泉。

六志士の各人物の詳細は下記をご覧下さい。

贈正四位・吉村虎太郎重郷(1837~1863)

父太平・母は幸、12歳で父のあとを継いで庄屋となる。須崎浦、下分村、梼原村の庄屋をつとめ治績あり。間崎蒼浪の感化を受け勤王愛国に徹し国事に尽くす。文久2年(1862)同志・宮地宣蔵とともに、脱藩、長州に奔る。伏見寺田屋騒動ため国に送られ投獄される。後許されて再度上京し同志とともに回天の大業を策し、文久3年(1863)8月、天皇大和行幸攘夷親征の話があったため同志とともに中山忠光卿を奉じその先駆となるため京都を発つ。世に天誅組という。吉村虎太郎はその総裁である。五条に鈴木源内を倒し十津川郷兵1千名を募り高取城を攻めるが、京都に政変があり天皇行幸が中止となったので大義名分を失う。援軍失く忠光卿と別れ大和の国吉野鷲家口にて戦死する。
時 文久3年(1863)9月27日 年26才
吉野山風に乱るるもみじ葉は わがうつ大刀の血煙りと見よ

贈正五位・那須俊平重任(1807~1864)

梼原の郷士、山田喜馬太を槍に、三木広作に剣を学んで武道に通じ、家に道場をつくり弟子を教えた。浜田信吾を娘・為代に配し父子ともに門人を指導した。文久2年(1862)信吾が参政・吉田東洋の首級をはね脱藩すると、人に頼んで槍術皆伝書を与えたのち父子ともに国事に尽くすことを約した。信吾が天誅組に参加して戦死の報があると涙を流して
大君のみことかしこみ仕えなむ 身はずたずたによし裂かれるとも
と感激の一首を詠んだ。元治元年(1864)6月玉川壮吉と脱藩、梼山源八郎の変名で松山深蔵の忠勇隊に参加して上京7月19日境町御門に向かったが、越後、会津の兵が固く守っている中に、尾崎直吉とともに槍をふるって突入したが、越後兵・堤五一郎に討たれる。時、元治元年(1864)7月19日 年57才
皇国のためともならん武人の 老の命のあらん限りは

贈従四位・那須信吾重民(1829~1863)

佐川の土佐藩士・浜田宅左衛門の二男で那須俊平の養子となる。身長六尺(182cm)津から強く健脚で25里(約100km)の高知城下へ1日で行ったといわれている。文久2年(1862)4月8日、同志とともに参政・吉田東洋を倒して脱藩、石原幾之進の変名で国事に尽くす。文久3年(1863)8月、同志吉村虎太郎らとともに中山忠光卿を奉じ、南部行幸の先駆となるため兵を挙げた。五条で鈴木源内を斬り高取藩の使者となって藩主・植村駿河守に食糧、兵器の供出を求めた。時に、京都に政変があり行幸は中止となり幕軍の追討にあい9月24日、大和の国吉野鷲家口で敵の重囲にあい決死奮戦の彦根の大将大館孫右衛門を倒したが狙撃せられ戦死する。時、文久3年(1863)9月24日 年34才
君故に惜しからぬ身をながらえて 今この時にあふぞうれしき

贈正五位・前田繁馬(1835~1863)

松原の庄屋で、子供の時藩士下元善平の門に入り書を学んだ。また前田恒五郎、公文富士蔵に平を学ぶ。文久3年(1863)2月、時局が切迫すると京に上がり諸藩の志士と交わって国事につくす。変名を大浪主計といい、同年8月吉村虎太郎の天誅組義挙に土佐の同志16名とともに参加、輜重の長となる。9月7日、大和市で彦根兵を夜襲し多くの分捕日品を得る。京都の政変以来、義軍振るわず繁馬は23日軍糧を焼き捨て鷲家口に向かう。敵軍多く味方は次々に倒れ、関為之助とともに紀州藩の陣地を突破、初瀬町に行き旅館樫木屋に休み朝食をとっている時、津藩・町井八郎外十余名に取り囲まれ奮戦空しく銃弾に倒れた。
時、文久3年(1863)9月26日 年28才

贈正五位・中平龍之助定確(1842~1864)

父は左平、母は登根、その長男として生まれ喜代次という。文久2年(1862)6月藩主について上京、さらに勅使東下のとき三条侯について江戸に入り使命を終って一応帰国する。文久3年(1863)11月6日時事に感じて、田所壮輔、尾崎幸之進、安藤真之助とともに宮野々の関門から脱藩。
散りてゆく秋の木の葉は朽ちるとも また来る春の恵みまたなむ
の一首を鎧櫃に入れて密かに遺書としたものである。本山勝八の変名で活動する。元治元年(1864)長州藩の志士たちとともに上京し、同志・松山深蔵とともに忠勇隊を組織して京に入り、会津の兵と堺町御門で戦うが、鷹司邸に突入の時会津藩の砲撃にあい重傷、同邸内にて自刃する。
時、元治元年(1864)7月29日 年22才

贈従五位・掛橋和泉吉長(1835~1862)

通称を順次といい、掛橋家の養子となり神職をつとめる。那須俊平の門人となって剣と読書を学び、勤王の志あつく、文久2年(1862)尊皇攘夷の声高まり同志は次々と脱藩して国事に尽くしたが、掛橋家は裕福であったので志士たちの資金援助を行った。義母はこれを知り叱責がきつく、和泉は事実を語ると同志の秘密を知らせることになり、それかといって義母をあざむくことはできない。苦悶の末死を決し、同志玉川壮吉を訪ね意中を語り死後を託した。玉川は酒を飲み慰め脱藩をすすめたが和泉はその夜、玉川の家を忍び出て先祖の墓地に行き銃をあて自殺した。
時、文久2年(1862)6月2日 年27才

旧掛橋和泉邸

旧掛橋和泉邸明治維新の志士・掛橋和泉(1835~1862)邸で代々神職を勤める子孫が現住している。茅屋根の母屋は幕末の建築で梁行4間半(約8.18m)桁行9間(約16.36m)、大黒柱は1尺2寸7分(約38.5cm)と1尺2寸(約36.4cm)角、間取りは神殿前客間10畳、玄関の間6畳、中の間、奥の間角8畳、茶の間10畳(現在は6畳、4畳半に分割)の6部屋からなり、奥の間は天井が低く危難の際を考慮して階上に「姫隠しの間」がある。幕末には遠近の同志がよく立ち寄り時局を談じたと伝えられている。

吉村虎太郎庄屋屋敷跡

藩政時代に津野三郷の大庄屋が置かれた地で、古く宝暦年間には百姓一揆の総大将である中平善之進(1709~1757)も大庄屋としてこの地に住し、また明治維新の志士・吉村虎太郎も安政6年(1859)より番人大庄屋を勤めた。明治以降は西津野村役場、孝山塾青年学校、民具資料館敷地として利用されていた。



Copyright (C) 2000 KOJYANTO.NET. All Rights Reserved.