鎌倉時代末期にこの地の豪族の城として築かれ、戦国期には長岡郡本山から高知平野に進出した本山氏の勢力下におかれました。
永禄三年長宗我部国親が当城を攻めて奪い、居城長岡郡岡豊城の支城とし、国親のあとを継いだ元親は天正十六年居城を一旦大高坂城に移した後、同十九年頃当城に移し、滅亡まで約十年間長宗我部氏の本城となりました。
慶長五年関ヶ原の合戦で豊臣方についた元親の子、盛親は除封され、土佐は山内一豊に与えられます。
長宗我部氏の遺臣一領具足たちの浦戸一揆が鎮定され、同六年当城に入った一豊は、同年九月から高知城の築城にとりかかり、同八年には新城に移り当城は、廃城となりました。
主都としての城下町経営にはふさわしくなかったのです。